Slow Luv op.4 -2-





(3)


 見合いを終えて相手をタクシーに乗せた後、ローズテールで少し飲んでから悦嗣はマンションに戻った。待っていたのは、伯母・園子と母・律子からの留守番電話だった。どちらも内容は同じで、相手側がこのまましばらく付き合いたいと言ってきたから、次の予定を決めたいというものだった。
 悦嗣はまず、園子に断りの電話をした。甥の返事を聞くや否や、言葉も挟ませない勢いで説教する。それを我慢強く聞くこと三十分、やっと解放されて実家に電話を入れたが話中で、繋がったのは小一時間してからだった。案の定、園子が長電話の相手で、息子同様、懇々と説教されていたらしい。明らかに、律子の声は疲れていた。
「とにかく、金輪際、見合いの話とかはお断りだから」
 母親の愚痴のような話を、またしても我慢強く聞いて電話を切った。
 竹内綾香は第一印象通り、感じの良い女性だった。音楽の知識はさすがに豊富で、会話にも淀みがなく、悦嗣を疲れさせなかった。演奏会の感想を話しながらの帰途は、見合いということを忘れるくらい会話が弾んだ。それがどうやら彼女に好印象を与えたらしい。
 空調が効いて部屋が暖まる。明日の仕事の確認とメール・チェックのために、PCの電源を入れた。悦嗣はタートルネックのセーターを脱いで、ピアノの上に放り投げた。先に乗っていたコートに中り、一緒に置いてあったプログラムが床に落ちる。それが悦嗣の目を引いた。
 『All Tchaikovsky』――見合いのために用意された演奏会は、プログラムが全てチャイコフスキーで構成されていた。
 その最後の曲は、ゲストにロシアの国際的なヴァイオリニストを迎えての、ヴァイオリン協奏曲。演奏が始まると悦嗣の耳は、ステージ上のソリストが生み出す音ではなく、別の音色を追っていた。情熱的で感傷的、大胆で繊細。生み出された瞬間から、その場の全てを支配する――悦嗣の記憶の中に存在する、中原さく也の音だった。
 それは無意識のことで、気づいた時、自分自身に驚く。中原さく也のオケ付きのソロは聴いたことがない。ステージ上のヴァイオリニストは巨漢で、ボーイングも紡ぎ出す音も、似通ったところなど、どこにもないと言うのに。悦嗣は音楽の中に取り込まれ、音を追いつづけていた。
 隣に座る見合い相手など意識から消え、アンコールの二曲目が始まる時に話し掛けられるまで、すっかり自分の置かれた状況を忘れていたのだ。プログラムを拾い上げると、その事が思い出される。悦嗣の口元に、苦笑が浮んだ。今日の自分はどうかしている…と。
 PCが起ち上がったことを知らせた。メールが受信されているマークが出ている。悦嗣はページを開けた。ダイレクトメールに混じって、英介とさく也の名前がある。マウスを持った悦嗣の手は、迷わずさく也の方をクリックした。以前の悦嗣なら、何を置いても英介が最優先だった。その不文律が崩れたのは、去年の夏。仙台音楽祭以降、まずさく也からのメールを読むようになっている。悦嗣自身、意識してのことではなかったが、今、クリックした瞬間、それに気がついた。
 マウスを握る手を、しばらくの間見つめる。
二月に入ったら、そちらに行こうと思う。予定が決まれば、連絡する。ウィーンは寒く、エースケは風邪を引いていて咳がひどい。しばらくオケに参加禁止になっている
 さく也のメールはいつも短い。その口同様、文章も口下手だ。多分、意思を伝えることが、言葉にしろ文章にしろ苦手なのだろう。一度、彼から国際電話が来たことがあったが、これと言ったことも話さず三分で切れた。
 メールの最後は必ず英介の事が書かれている。人のことには気が回らなさそうな彼なりの、悦嗣に対する配慮なのだ。どんな気持ちでその文面を打つのだろう。考えると、少し切なくなった。
東京も寒いよ≠ニ返信の始めを打ったところで、手が止まった。受信ボックスをクリックして、さく也からのメールを再度開けた。その素っ気ない文面をしばらく眺めた後、悦嗣はPCの前を離れた。本棚から『日本の名勝百選』を取り出す。折印のついた、青天に浮ぶ富士山のページを開いた。雲一つなかった空を横切る無粋なペン字は、さく也のウィーンの連絡先だった。これをさく也が書いたのは一昨年の六月だが、未だに悦嗣はアドレス帳の類に書き写していなかった。自分から国際電話をかけることはない。中原さく也の生活圏は日本からはるか離れたウィーンだったし、示された好意は一過性の、離れてしまえば消えて疎遠になる程度のもので、メールアドレスさえ知っていれば事足りると、あの頃は思っていたからだ。
 ダイヤルボタンを押すと、国内とさほど変わらない呼び出し音が聞こえる。時差は八時間ほど。ウィーンは午後三時を回った頃だろう。仕事に行っているかも知れない。それでも受話器を置く気にはならなかった。
 相手が取った音がして、「もしもし」と悦嗣が話そうとすると、女性の声で外国語が聞こえて来た。事務的なそれは、留守番電話のガイダンスだとわかった。日本と同じように、伝言を促す「ピー」と言う音が聞こえる。
「えっと…加納ですけど。用があったわけじゃないから、掛け直さなくていい。ただ、声が聞きたかっただけだから」
 メッセージを入れたところで、慌てて受話器を置いた。
――何言ってんだ、俺は
 電話を切るまでは、躊躇いがなかった。声を聞きたい衝動も本当で、それを伝える言葉も悦嗣の口から自然に零れた。受話器を置いた時点で、その衝動を思い知る。
 一連の行動を、肯定するのは容易い。そして、その原動力となったものも知っている。
――俺は、
 自分は中原さく也に惹かれている。ヴァイオリンの音色以上に、彼自身に。あの素直な好意に。あの時々の微かな笑みに。
 悦嗣はピアノの上のセーターを手に取り、被りながら玄関へ足を向けた。鍵を引っ掴むと、エアコンも何もかも点けたまま、部屋を出た。




(4)


 さく也が着替えて寝室を出ると、ピアノの音が部屋に充満していた。
 アップライト・ピアノの前にユアンが座っていた。長い指が鍵盤をガシガシと掴み、情緒も何も無視して、ただフォルテで弾き続ける。ベートーヴェンのせっかくの名曲は、騒音となって壁を叩いた。ここが演奏家専用の、古いながらも防音仕様のアパートでなければ、隣近所から苦情が来るほどに。そう言う風にして、彼なりに昂ぶった気持ちを抑えようとしているのだ。ユアンのこの状態がしばらく続くことを知っているさく也は、キッチンに入った。
 二人分のコーヒーを入れて、カップの一つをピアノの上に置いた。
 ユアンの手が止まった。傍らに立ったさく也を見る。手は鍵盤から離れ、さく也の頬に伸びた。冷たい指先が触れる。
「錯覚なんかじゃない。僕は…本当に君のことが。だから、言ってくれ。どうしたらいい? どうしたら君に振り向いてもらえる?」
 スッと、さく也は下がった。
「ユアンはユアンのままでいい。無理をすればきっと歪んでくる。そのままのユアンを愛し――」
「どうしても、僕ではダメなんだね?」
 さく也の言葉を遮って、ユアンが立ちあがった。
 見下ろされるのを嫌って、さく也はソファの方に動いた。その腕をユアンが掴む。振り払う間を与えず、そのまま腕を引いて、ソファに押し倒した。ユアンの長い足があたって、テーブルの上に置いたコーヒー・カップが床に落ちる。
 さく也の真上に、ユアンの青い瞳があった。
「僕は…君を抱くよ」
「やめろ」
「サクヤがフィデリティを大切にしていることは知ってる。好きなヤツがいると、他の男とセックス出来ないくらいに。こうして僕に抱かれてしまえば、もう彼の元には戻れないだろう?」
 ユアンの左手がさく也の両手首を、ユアンの長い足がさく也の足を押さえ込んだ。
「離せ」
 彼の本気を感じ取って、さく也は体を捩った。しかし圧し掛かるユアンは、びくとも動かず、もうさく也の声も聞こうとしない。
 キスから逃れるために動くさく也の顎を右手で掴み、唇を合わせた。噛み付くようなキスは、さく也の抵抗を封じる。それを確認すると、彼の右手はセーターの裾から、さく也の胸に滑り込んだ。
「ユアン!」
「抵抗しないで、サクヤ。ひどくしたくないんだ」
 哀願する目でユアンが言った。次に落とされたキスは先ほどのそれとは違い、愛しむように優しいものだった。
 育ちが良く、才能と人柄で手に入らないものはなかったユアンは、相手の合意なしでのセックスはしなかった。知り合ってから数え切れないほどさく也をくどきはしたが、むやみに体に触れることはなく、軽く肩を抱く程度で、それもさく也が嫌がる時にはすぐに外すほどだった。
 その彼が、さく也を力ずくで抱こうとしている。これは、言葉足らずな自分のせいなのだろうか…と、さく也は思った。ユアンの事は嫌いじゃない。疎ましいほどの好意、だからと言って嫌いにはなれなかった。さく也は表現の仕方がわからないから、冷めて人嫌いな印象を与えているが、人恋しい部分は人並みに持っている。
 ユアンの手が優しく触れる。ユアンの唇が甘く愛を囁く。自分の意思とは関係なく、さく也の体は熱を帯び、彼に応えてしまいそうに力が抜ける。
 電話のベルが鳴った。反射的にさく也の体が動くのを、ユアンが押さえ込んだ。
 ベルはしばらく鳴りつづけると、いつも通りに留守番電話に切り替わり、機械的な声でガイダンスが始まった。さく也の意思がそちらに移ったことを感じて、ユアンがまた唇を合わせてきた。歯列を割ろうとする彼の舌に、さく也の唇が緩んだ時、
えっと…加納ですけど。用があったわけじゃないから、掛け直さなくていい。ただ、声が聞きたかっただけだから
その声が流れた。精彩を失いかけたさく也の目は、途端に光を取り戻す。
――加納…!?
 次には、渾身の力で、ユアンを押しのけていた。さく也の抵抗がなくなって加減していたユアンは、ソファの下に落とされた。
「サクヤ!?」
 慌てて引き戻そうと彼は腕を伸ばしたが、さく也はそれをすり抜けた。体の熱りは一瞬にして引いた。
 電話に駆け寄り、再生ボタンを押す。今、録音されたばかりのメッセージが、スピーカーから流れ出した。間違いなく、加納悦嗣だ。
 さく也の声を聞きたかったと言ったのは、聞き違いではなかった。五ヶ月ぶりの悦嗣の声は、別の熱りをさく也の頬に産みだした。電話の脇のメモパッドには、初めて悦嗣に国際電話をかけるために書き留めた電話番号が、そのまま残っていた。プッシュ・ボタンを押す。ユアンの気配を背中に感じ、振り返って彼を見た。
「寄るなっ!!」
 常にない声で一喝され、ユアンはその場に立ち竦んだ。全身で拒絶を示して、さく也は耳に響く呼び出し音に集中する。
 むなしく鳴り続ける電話は、しばらくして悦嗣自身で吹き込まれたガイダンスが流れ、留守番電話に切り替わった。
 あんなに聞きたいと思った悦嗣の声。かけたくてもかけられなかった電話が、彼の方からかかってきたと言うのに、どうして自分は取れなかったんだろう。
 受話器を置いて、乱れた胸元を整えた。
「ユアン、今日のことは忘れる。だから帰ってくれ」
 棒立ちのユアンに一瞥くれて、さく也は寝室に向った。
 入り口近くに立てかけてあったヴァイオリン・ケースを引っ掴むと、パスポートやカードの類を楽器と一緒に放り込む。脱いだままイスに無雑作にかけられたコートを着込みながら、部屋の戸締りを手早く済ませた。
 空調を切り、後はドアから外に出るだけになり、さく也がまだ立ち竦んだままのユアンに向って、彼のコートを放った。
「さっきの電話…」
 ユアン搾り出すように言う。
「彼だな? 彼のところに行くのか?」
「だったら、どうなんだ? また無理やり俺を抱くのか?」
「サクヤッ」
 さく也は時計を見る。もうすぐ4時だ。今から日本行きの便はあるだろうか? なくても構わない。とにかく空港に行きたかった。それだけで、悦嗣に近づく気がしたから。
「友達としてのユアンは失くしたくない。俺を行かせてくれ」
 物問いたげな青い瞳に、さく也は続けた。
「彼じゃなきゃ、嫌なんだ」



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